第4章 佑奈への制御を失う
警備員が、佑奈をがっちりと護っている。
群衆越しに向けられたその眼差しは、冴え冴えと冷たく、淡々としていた。まるで赤の他人を見るみたいな、これまで一度も見たことのない距離感で――有川紘樹を見つめてくる。
その視線だけで、紘樹は理由もなく苛立った。
佑奈に、こんな態度を取られたことなどない。
こんな屈辱も、初めてだ。
佐伯薫は悔しそうに唇を噛み、涙を溜めた目で訴える。声はかすれていた。
「佑奈さん……紘樹は、あなたのご主人でしょう? 外でここまで面目を潰すなんて……」
「それに私、ただネックレスが欲しかっただけ。くれないなら……もう、いいです……」
俯いた途端、涙がぽろりと落ちた。
あまりに「可哀想」が上手くて、見ている側が同情してしまいそうなほど。
有川紘樹は眉を寄せ、佑奈への苛立ちを隠さず声を落とした。
「お前には関係ない。佑奈が、子どもみたいに騒いでるだけだ」
――甘やかしすぎた。
だから調子に乗って、白昼堂々こんな真似をする。
一度、きっちり教え込む必要がある。頭を下げて家に戻り、二度と同じことをしないように。
「いいだろう、佑奈。どっちが出ていくか、見せてやる」
紘樹はスマホを取り出し、アシスタントの佐伯哲也へ直通した。
「経理部長に連絡しろ。資金を用意しろ。ランティン本店を買収する」
言い終えた瞬間も、佑奈の表情は微動だにしない。瞳の奥に、わずかな嘲りだけが浮いた。
想い人のためなら、買収まで持ち出す。
――ご立派なご執心だこと。
店長が慌てて一歩前に出る。
「有川社長、恐れ入りますが、当店は認証保護の対象でして、買収はできません」
「……佐伯哲也?」
紘樹が低く呼ぶと、電話口の佐伯哲也は慌ただしく調べたらしい。慎重に言葉を選びながら答える。
「有川社長、事実です。本店は認証保護の仕組みがあり、買収対象にできません」
「また、ランティンの展示品は国際ジュエリー協会の保護対象です」
「それと、社長がご所望のネックレスですが……ユナ先生の作品で、オーナーの許可なく売買できない非売品です」
紘樹のまぶたが、ぴくりと跳ねた。
ユナ。
すでに引退したはずのデザイナー。
その作品が、佑奈の店に――非売品として置かれている?
警備員がさらに間合いを詰め、紘樹をぐるりと囲む。
「有川社長、こちらへ」
紘樹は顔色を沈め、眉間に深い皺を刻んだ。苛立ちが体温ごと下がっていく。それでも、佑奈に対しては完全に手が出せない。
結婚して六年。
こんなふうに、佑奈を「思い通りにできない」と感じたことは一度もなかった。
「……まだ出ていかないなら、実力行使して」
佑奈が冷えた声で命じると、警備員たちが一斉に動く気配を見せた。
衆人環視の中、有川紘樹と佐伯薫は、ランティン本店の外へ『お帰りいただく』ことになった。
外には、すでに野次馬が集まりはじめている。
栄城市で有川紘樹を知らない者などいない。
その紘樹が、大勢の前で警備員に追い出される――滑稽な見世物だ。
佐伯薫は居心地悪そうに俯き、目に涙を溜めたまま、震える声で囁く。
「全部、私が悪いの……あのネックレスを欲しがったから……佑奈さんを怒らせて……」
「いい。行くぞ」
紘樹は吐き捨てるように言い、路肩に停まっていたロールス・ロイスに乗り込んだ。
佐伯薫も追うように乗り、柔らかい声で宥める。
「紘樹、怒らないで。私……佑奈さんに謝ったほうが……」
紘樹の目が冷える。瞳の奥で、獣じみた苛立ちがうねった。
「謝る必要がどこにある。悪いのはあいつだ。面子も弁えず、公衆の面前で騒いだ」
佐伯薫は唇を結び、少し間を置いてため息まじりに訊く。
「佑奈さんも……さすがに、やりすぎだと思う。じゃあ、これからどこへ?」
「有川グループだ」
紘樹は目を閉じ、これ以上この話を続けるなとでも言うように黙った。
佑奈は自分に寄りかかって生きるだけの主婦だった。六年間ずっと。
毎日、娘と自分のために食事を作り、玄関で卑屈に帰りを待つ。
それが今は、別人みたいに見下ろしてくる。嘲りまで混ぜて。
――どうせ、気を引くための駆け引きだ。
そう思い込もうとするほど、胸の奥の「制御不能」が濃く絡みついて離れない。
紘樹は深く息を吸い、無理やり思考を断ち切った。
夜。
仕事を終えて帰宅すると、家の空気が妙に冷たかった。
いつも漂っていた料理の匂いはなく、ほのかな芳香剤の香りだけが残っている。
使用人が駆け寄ってきて、焦った顔で告げた。
「若様、菜央様が食欲がなくて……夕食はお粥を二口ほどで、もうお部屋へ」
紘樹は眉を寄せ、上着を投げるように渡す。
「どういうことだ。あいつは戻ってないのか」
菜央は偏食が激しい。専任の使用人ですら手を焼く子だ。
それでも二年かけて、佑奈が子ども向けレストランの料理人に頭を下げ、手間のかかる食事を作り続けたからこそ、ようやく体調が安定したのに。
使用人は困ったように両手を広げた。
「奥様はまだ……菜央様がお電話しても、出てくださらなくて」
紘樹は一瞬だけ足を止めたが、何も言わず階段を上がった。
寝室は相変わらず整っている。
ただ、クローゼットを開けると佑奈の服が数着消え、ドレッサーのスキンケアも抜け落ちていた。
そして机の上に、離婚協議書がきっちりと置かれている。
今朝、紘樹は一度も目を通さなかった。
紘樹はそれを手に取る。
佑奈の署名は、迷いのない、切れ味のある筆致だった。まるでこの結婚に未練など欠片もないと告げるみたいに。
その文字を追ううち、紘樹の視線がゆっくり凍っていく。
そのとき、子ども部屋から使用人の悲鳴が上がった。
「お嬢様! 菜央様!」
胸がひやりと締まり、紘樹は駆け出した。
使用人が青ざめて報告する。
「若様、菜央様がお熱です!」
部屋に飛び込むと、菜央が布団の中で真っ赤な顔をして泣き叫んでいた。
「パパ……つらい……ママが歌って寝かせてくれないとだめ! ママは?」
紘樹はベッドに腰を下ろし、薬を手に取る。
「いい子だ。ママはいま家にいない。先に薬を飲め」
「いや! 薬やだ! ママがいい! ママが歌うの!」
菜央はわあっと泣き、布団を蹴って暴れた。
紘樹は苛立ちを押し殺し、佑奈に電話をかける。
次の瞬間、無機質な音声が流れた。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません……」
使っていない?
ありえない。
――ブロックされたのか。
紘樹の顔が沈む。
「お前の携帯を貸せ」
使用人は慌ててスマホを差し出した。
別の番号でかけ直す。今度は繋がった。
紘樹は端末を握り締め、出た瞬間に問い詰めるつもりだった。
娘が高熱なのに、どこで何をしている――と。
だが受話器の向こうから聞こえたのは、低く怠けた男の声。
「はい、どちらさま?」
紘樹の目が暗くなる。
「……お前は誰だ」
「そっちこそ誰?」
男は気怠げに笑う。
「佑奈はいま出られない。用件言って。伝えとく」
